初恋
 そこはまるで別世界だった。
 いたるところにピンクや赤や金色のハートマークが散らばり、リボンは色鮮やかに舞い踊っている。包装紙の匂いと混じり合ったチョコレートの香りが、そのイベントを象徴するかのようにその場を甘く満たしていた。その場にいるほとんどが女性だが、その年齢層は幅広い。
 百貨店のバレンタイン特設コーナー、それが今私が立っている場所だった。
 こんな場所へ自分の意志で足を踏み入れることなど、生まれてこの方無かったことだ。なんとなく気恥ずかしい。自分も女であるにもかかわらず、周りから浮いているような気がした。
 私は生まれて初めての恋をしていた。今までも恋に恋をするようなことはあった。だが、誰かのことをこんなにも本気で好きだと思ったことはなかった。初めての恋。私はこの想いを告げるためにこのイベントの力を借りることにした。
 目の前の青い小箱を手に取る。一口サイズのプラリネが六つ、箱の中で輝いていた。その隣のベージュの箱にはオランジェット、更にその隣には生チョコレートの小箱が並んでいる。会場内のショーケースの中にはザッハトルテやガトーオペラといったチョコレートケーキも見えた。その他にも様々なチョコレート、それ以外の商品もたくさんあるようだ。
 私ははたと気づいて手にした箱を元に戻す。
──知らない。
 私は彼の好みをほとんど知らなかった。一緒に過ごした時間は短いとは言えない。それなのに……。
 特別嫌いなものは無かったように思う。だけど、何が好きかというようなことはわからなかった。知ろうとしたことも無かったかもしれない。
 苦い笑みを浮かべる。そんな人のことを突然好きになるなんて、考えてもみなかった。周りからは何を今更と呆れられるかもしれない。それでも折角芽生えた温かなこの気持ちは大切にしたかった。
 あれこれ悩んだが結局、シンプルなビターチョコレートの詰め合わせにちょっとしたプレゼントを添えて贈ることにした。たかがプレゼント一つ選ぶのに、こんなに思い悩んだことはあっただろうか。そして何より、彼は喜んでくれるだろうか。
 落ち着いたブラウンの包装紙と揃いの紙袋には、赤いリボンが掛けられている。今やこの両手に載るくらいの小さな包みが自分の想いのすべてだった。私はそれに祈りを込めるよう、そっと両の腕で包み込んだ。今の自分の姿は恋する乙女そのものだった。見るものがあれば、笑われたかもしれない。
「ふふっ……」
 そんな姿がなんだか自分でも可笑しくなり、自然と笑いが込み上げてきた。
 気を取り直した私はそのまま、家へ帰る電車に乗った。
 電車の席に座ってからも、気持ちがそわそわと落ち着かない。乗り慣れた沿線がいつもよりずっと長く感じた。

 自宅の扉の前。わからないよう、チョコレートの袋をほかの荷物の中へ隠す。そうしてから静かに、私は扉を開けた。
「ただいま……」
 後ろめたいような気持ちが出たのか、おのずと声が小さくなる。
 リビングからはテレビの音が漏れ聞こえていた。戸を開くと、ソファの上で寝そべったままテレビを見ている中年太りの男の姿が見える。男はこちらに気づいたようで、体を起こすと顔をこちらへ向けた。
「ああ、おかえり。帰ったのか」
 男はそう言うと穏やかに微笑んだ。
「うん、ただいま帰りました」
 自分も笑顔を作ってみたが、緊張したせいかどことなく不自然な感じになった。悟られなかったかと不安になったが、男は特に気にする様子もないようだ。
「今日外は寒かったろ?中であったかくしなさい」
 男は私にこたつを勧めた。
 彼は私の夫だ。見合い結婚だった。優しい人だっし、特に仲が悪いわけではなかったが、彼を好きだと思ったことは一度もなかった。子どもはできなかったが、情はあったのでここまで連れ添ってきたという感じだ。
「ええ、ありがとう。先に荷物置いてきちゃいますね」
 私はまたもぎこちなく笑い、リビングを出る。
 自分の部屋へ入ると、隠した紙袋を取り出した。買ったときに抱いていた気持ちは何一つ変わっていなかったが、それを渡す決心は鈍っていた。まだ今なら引き返せるのではないか。そんなことも考えていた。
「うふふっ……」
 我ながらの気の小ささに、再び可笑しさが込み上げる。そうだ。もう引き返せない。引き返すことなど、もはや意味はないのだ。
 私はチョコレートの袋を手に、リビングへと戻った。夫は帰ってきたときと同じようにソファに横たわっている。その脇へ座ると、私は袋を差し出した。
「その、今日はバレンタインだから……、その、あなたに、チョコレートを……。あの、いつも、ありがとうございます。えっと……、あ、あ、あ、愛しています」
 閊(つか)えながらもそれだけ告げた。最後の最後は消え入りそうな声になっていた。酷い告白だった。五十を過ぎて、しかも自分の夫を相手にしているというのに、恥ずかしくてたまらない。きっと今自分の顔は真っ赤だろう。
 面食らって目を白黒させていた夫だったが、やがていつも通り優しく微笑み「ありがとう」と言ってそれを受け取ってくれた。

 夫を初めて好きになった日のこと。きっかけは、他愛無いこと。
「いつもありがとう。きみをお嫁さんにしてよかったよ」
 去年の十一月に彼がそう言っただけ。たったのそれだけだった。
 どうしてそれがきっかけになったのかは正直よくわからない。きっかけについてはそれに間違いないのだけれど、きっとそれがすべてではないのだろう。
 失った時間はもう取り戻すことはできない。ここから先、夫に注いでいきたい愛情も私の自己満足でしかない。私の罪は消えないけれど、それでも今、私は夫を愛している。
 私が夫を愛していなかったことに夫が気づいていたかはわからない。今も昔も、ただただ優しく微笑んでいるだけだった。





モドル