未明 〜「帰依(きえ)の夜」に於(お)ける後述〜
「あれも哀れな娘よ……」
 畳敷きの居室に老人の呟きが漏れた。老人の目の前には一組の男女がやや緊張した面持ちで座している。
「父さん、どうしましょうか……?」

──今年の贄である娘が“神の山”から逃げ帰ってきた。
 老人の息子夫婦が運んできた知らせは、凡そそんな風であった。
 しかも娘は神に会い、化け物が現れるとの告げを賜ったと吹聴しているという。


 老人は目を閉じると軽く頷く。
「よい、放って置け」
 老人は知っていた。二、三十年に一度“化け物”が現れること、その周期が目前に迫っていること、更に言えば皆の信仰する“神”自身がその“化け物”であることも。
 少なくともひとつ、娘は嘘を付いていた。
 あの神は人を助けたりなどしない。
 しかしすべてがでたらめではないところから察するに、娘は何処かで真実を知ったのだろう。
 村外れに住まう鼻つまみ者の女がどうとか言っていたため、そこから話を聞いたのかもしれない。
 神に仕える幸福のうちに死ぬことが出来なかった娘は哀れだった。
 ただ娘は哀れだが、愚かではなかったようだ。真相を発露するには娘はあまりにも矮小過ぎた。それを即座に察して口を噤んだのだ。
 その判断は非常に都合よく運んだと言える。娘にとっても、また村長(むらおさ)である老人にとっても……。無論、娘が発した言ひとつを握り潰すことなど、老人にとっては容易いことではあった。しかし“疑惑”などというものは生まれなければそれに越したことはない。娘は沈黙を選んだ。ならばこちら側へ抱き込んでしまえばそれで事足りる。
 “娘が賜った宣託”の通り、化け物は村へ下りてくるだろう。そうなれば娘は村で信仰の対象となる。信に足らなければ自らがほんの少し、後押ししてやればいい。神格化した娘を手に入れておけば、後々役に立つはずだ。


 取るに足らぬこと。老人にとって、贄の娘が逃げ帰ってきたことなどまさにそれであった。
 息子夫婦に適当な指示を投げた後、老人は再び自らの内へと沈み込んだ。


──うちは代々村長を務める家系だ。最初の化け物の出現、それは自分の高祖父が村長を務めていた頃の話だった。無論、自身など影も形もない時分だが、それは起こった。欲にかられたのか、それとも他に何か目的があったのか、はっきりしたことはわからない。明らかなのは、事の発端は高祖父であったということだ。
 高祖父は妖(あやかし)を使役しようとした。代々そういう類のものを扱う家系もあるようだが、うちはそうではなかった。だから高祖父はそれを、呪(まじな)いを用いて創り出そうとした。そして失敗したのだ。
 生まれ出でたのは自我など持たぬがらくただった。
 一応所従たる律格はあるらしく、主を襲うことはなかったが、だからといって高祖父の言うことを聞くような知性も持ち合わせてはいなかった。
 あれはいわば、欲望の残骸だ。なれど、ただの芥(あくた)と片付けるにはその力はあまりにも大き過ぎた。創り出した者にとって何の役にも立たないばかりではない。その他大勢にとっては正に厄災であった。
 誰も知らなければその真実は存在することが出来ない。高祖父が化け物を生み出したという“真実”は、幸か不幸か、誰も知らなかった。
 だから高祖父は、その後も平然と暮らしていられた。
 化け物は当然村へ現れた。だが高祖父自身が危険な目に逢うことはない。高祖父は幾人もの命が瞬く間に消えていくのを横目で見ながら、逃げ惑う“ふり”だけを懸命に繰り返していた。長として村を案じてもみせた。誰も高祖父を疑う者はなかった。
 初めの年の被害は甚大なものだった。翌年また化け物が山を下りてきたときには、誰もがこの村の終わりを感じた。
 しかし、その年は村娘がたったひとり、喰われただけだった。更にその翌年も……。
 皆一様に首を捻った。高祖父にもその理由がわからなかった。
 毎年年頃の娘を贄にしようと言い出したのは、村人たちの方からだった。
 それからしばらくの間、化け物は村へ下りてくることなく、村人たちは安寧を噛み締めた。
 そこから二十年ほど経ったころ、異変が起こった。化け物が再び村まで下りてきたのだ。贄は当然、捧げられていた。しかしなぜかその甲斐無く、化け物は村を荒らし回った。
 しかしまたその次の年には、ひとりの贄で村の平穏は守られた。
 化け物の動きには一定の周期があった。現れるのは年に一度、それも日付までぴたりと決まっていた。人を襲うのは、単純に空腹を満たすためのようだった。そして二、三十年に一度、村をひっくり返すほどに暴れまわり、多くの人間を喰らう年が来るのだ。我々一族はそれを見守り続けた。そして神を騙り、贄を名誉とする伝説をも創り出した。
 多くの命をかき消した年に、化け物は子を成していた。子……といっても、それは鶏卵ほどの大きさの卵であった。その数は百を下らなかった。中身については……よくわからない。見た目にはただの蛇の子に見えた。我々が目にしたのはどれも死骸ばかりであったから、実際のそれが何であったのかは断ずることができない。それの命を奪ったのは我々だった。だが、それは仕方のないことなのだ。もしそれらが親と同じようなものだったときに、決して世に出すわけにはいかなかった。我らは夥(おびただ)しい数の卵を打ち壊し、最後は念入りに焼き捨てた。百年以上の間、一族はそれを繰り返している。遠い日には可哀想だと思ったこともあったが、今ではもうそんなことは思わない。化け物も、特にその行為を気にする様子は無かった。
 もちろん高祖父のことを恨んだ時期もあった。何故自分のせいでもないのにこんなことを、と。それも今では諦めたことだ。自分たちが払う犠牲など、他の村人たちに比べればなんでもないことだった。所詮この世に自分や身内以上に尊いものなどないのだ。自らと家族が無事でさえあれば、この安穏な地位さえ守れるのであれば……他の代償には目を瞑る。そうして今日までやってきたのだ。そうしてこれからも一族はそうやって生きていくのだ。最早、古にヤマタノオロチを退治たスサノオノミコトのような救世主でも現れない限り、この伝説は終わらない。


 老人は自らの内の闇を吐き出すように、長い溜息をついた。その顔に表情は無い。長い思索にふけるうちに、山の向こうには薄明かりが射し始めていた。娘がもたらした混乱によって、屋敷の外からは微かにざわめきが聞こえる。皆避難について相談を交わしているのだ。
 ならば、と老人は腰を上げた。談義に加わり、指示を出さねばならない。この家を守るため、村民を従える“村長”であらねば……。


 村長の指示を受け、人々は一斉に村を脱した。ある者は縁戚を、またある者は知人のつてを頼り、その他寄る辺の無い者は村長たちが場所の面倒を見た。
 老人はたったひとり、村の入り口に立っていた。どこか冷めたような目で、村を見ている。村の中はすでに蛻(もぬけ)の殻だった。
 それが現れるときの独特の気配が空気を満たしていた。やがてそれは実際の音となり、辺りに存在を示す。何か重たいものが地面を這いずるような音。そしてとうとう、それは姿を現した。女の上半身に、その何倍もある巨大な蛇の腹、その腹の横からは無数の人の腕が生えている。その顔つきは、見るだけで人の意を解することなどないということがわかるものだった。化け物は鼻をひくひくと動かし、人の気配を見つけようとしているらしかった。
 ふと、目が合う。ほんの一瞬、両者の動きが止まった。それは本当に短い時間であった。化け物はわずかに老人の存在を認めただけで興味を失ったらしく、再び村の様子を探る動作に戻った。
 化け物は主を襲わない。それは老人にとっても同じだった。体内に流れる高祖父の血が、一族だけを守っていた。
 老人とて、それほど関心を持ってここにいるわけではなかった。ただ空となった村を目の当たりにした化け物がどうするのか、知りたかっただけだ。
 化け物はしばらく、村の中を這いずり回り、時としてあちこちを破壊しながら餌を求めていた。そのうちに人がいないことを察すると、巨体を引きずりながら隣村の方へと去っていった。後のことは……言うまでもない。
 老人はただ黙してその背を見送った。別段止めようとか、隣村の者たちを救おうなどとは思っていない。間もなく完全に興味を失うと、老人も避難先へと戻っていった。
 そろそろ、先の贄のことについても考えねばならない。本当ならば誰でも構わないのだ。だが“創り上げた伝説”の上で、贄は“年頃の娘”でなくてはならない。自分の治める村はそれなりに大きく豊かであったが、それでも毎年若い娘を取られるのは少々厳しいものがあった。だから時折、前以て贄を得る算段をする必要が出てくる。とはいっても執られる手段はそう多くはない。大概の場合、他の村へ出向き、食うにも困るような生活をしている家から幼い娘を金で買い取っていた。それでも手に入らないときには勾引(かどわ)かしもした。そして幼子もいずれは村の信仰に染まり、自ら贄となることを望むようになるのだ。


──贄は幸福のうちに死に、その死によって村も富や豊穣を得たと喜ぶ。それならば、わざわざ自分たちがしてきたことを、真相を、教えてやる必要などない。真実を知ることばかりが幸いではないのだ。耳触りのいいまやかしごとに浸って信じていればいい。そうして……この村は成り立っているのだから……。





モドル