天通商店街
 柔らかく優しい風が目の前を通り過ぎていった。土と草を踏む音が耳に心地よい。それが自分の立てるものだと気付くのにしばらく掛かった。
 それに気付いて立ち止まり、周りの景色を見渡す。そこは広い、公園のような場所だった。遊具が並んでおり、花壇に囲まれた池には太陽の光がゆらゆらと反射している。
 いつからここに居るのか、どのようにしてここへ来たのか、またここが一体何処であるのかは全く判らずにいた。
 何も思い出すことが出来ない。記憶が抜け落ちている、というよりは、頭全体にもやがかかっていて記憶の先へ進むことが出来ない、そんな感覚だった。もしかしたら自分自身のことも思い出せないのではないかと思ったが、その記憶の一部分だけは僅かながら無事だったようだ。ただし、思い出せたのはたった一つ、自分の名前だけであった。
 谷川(たにかわ)ミツ、それが自分の名前である。それ以外のことは全く判らない。自分の年齢、生まれた、あるいは住んでいた場所、誕生日、そんな基本的なことさえももやの向こう側だった。
 視線を落として手のひらを、それから少し翳すようにしながら手を伸ばし、今度は手の甲側を確かめる。しなやかですらりとしている、というものではないが、ほっそりとした女性の腕のようだった。
「あー、あー……」
 次に声を発してみた。これといった特徴のあるものではないが、やはり女性のもののようだ。まだ若々しく張りがある。
 最後に池の側へと小走りに近寄り、その水面を覗き込んだ。水鏡に映る顔は線の細い、まあまあの美人であった。
 それは自分の顔であるにも拘らず、何となく違和感があった。久しぶりにその顔を見た、そんな気がした。
 ざあっと葉擦れの音がした。頭上を鳥たちが飛び越えていく。
 ふと視線を上げると、公園の向こう側にアーチが見えた。更にその向こうにはアーケードが続いている。どうやらそこは、商店街のようだ。
 公園を抜け、アーチの前に立った。アーチには「天通商店街」と書かれている。
 アーケードは奥へずっと続いており、反対側の端は見えない。ずらりと店舗が並んでいたが、どの店もシャッターが下りており、開いている店は見当たらなかった。アーケード内にも人が歩いている様子は無く、閑散としている。シャッター商店街を通り越して、もはや打ち捨てられた廃墟のようであった。
 何となく興味を引かれて、商店街の中へと足を踏み入れてみた。


 ―――薬局、靴屋、レストラン


 シャッターや看板を眺めながら奥へと進む。


 ―――総菜屋、青果店、洋品店


 やはり開いているような店は無い。


 ―――電気屋、和菓子屋―――


 と、そのとき、一種異様な彩りが目に飛び込んできた。
 いや、それ自体は別段変わった光景ではなかった。だが、シャッターが立ち並ぶ灰色に近いくすんだ世界の中では、それは異色の存在だった。
 一軒だけ、シャッターが開いていた。
 中からは光が漏れている。遠目にはそれはたばこ屋のように見えた。対面式の小さな店舗。ここからでは文字は読めないが、赤い電気看板には明かりが点っているようだ。こんな中で営業しているのだろうか。
 訝しく思いながら、その店との距離を詰めていく。
 ようやく看板の文字が読めるような距離に至ったとき、自然とその足が止まった。


 ―――魔法発券所―――


 そこには「たばこ」の代わりにそんな文字が書かれていた。限りなく怪しい。異様、という印象はある意味正しかったと言える。
 何だかよく分からないが、出来れば関わりたくない手合いだ。このまま引き返そうかと思いあぐねていると、店の中にさっと影が差した。
 不意なことに驚いて固まっていると、続いて中から人の頭が差し出された。男性、いや、まだ少年のようだった。
 少年は店から身体を乗り出し、首を巡らせて見回すような仕草をした。ぱちり、目が合う。しまった、と思ったが、もう手遅れだった。
 少年はにっこり微笑むとこちらへ向かって手招きをした。
 正直、気が進まない。このまま走って帰ってしまおうかと思った。躊躇っていると、少年は大声で呼び掛けてきた。
「何をしているの?早くこっちへおいで」
 とても初対面の人間への敬意ある声の掛け方とは言えなかった。
 ややむっとして、少年に恨めしい視線を送る。だが少年の方はこちらの様子などまるで気にしていないようだ。
「いいからおいで。おいでったら!」
 あまりに少年が必死なので、何をそんなに呼ばうことがあるのかと、毒気を抜かれるのと同時に少し興味が湧いた。
 警戒は緩めず、そっと店の側へ寄る。そんな私の様子に少年は再びにっこりと微笑んだ。そして嬉しげに声を張り上げる。
「ようこそ!天通商店街(あめどおりしょうてんがい)へ!」
 嬉しそうな少年とは対照的に、私は面食らって、折角店の側まで運んだ足を二、三歩後ろへと戻した。
 一体この少年は何なのだろう。一体この死に絶えた商店街で何をしているのだろう。もしかして人が居ないのをいいことに「お店やさんごっこ」でもしているのだろうか。それにしては電気看板なんかが用意されているのはおかしいが……。
「申し遅れました。僕の名前はハル。この魔法発券所の店主を務めています。それから、この商店街の案内役も……」
 急に丁寧な営業口調になった少年は、ハルと名乗った。そして台の下からチケットの綴りを取り出すと、こちらに向かって差し出した。束は分厚く、百枚くらいはありそうだった。表紙には「天通商店街引換チケット」と書かれている。
「これはね、魔法のチケットなんだ。一枚一枚に魔法が込められているんだよ。これはミツの分。君のためだけに用意されたものだ。あ、そうそう、お金なんかは取らないから安心してね」
 私は今一度驚いてハルの顔を見た。何故彼は私の名前を知っているのだろう。やはり記憶は戻っていなかったが、もしかしたら私の知り合いなのだろうか。それならば馴れ馴れしい口の利き方も多少は納得出来る。
 だが、言っていることの意味はいまひとつ理解が出来なかった。やっぱり何かの遊びなのかもしれない。
「このチケットでこの商店街の中を見て回るんだ。いろいろな人に会えるし、いろいろなものを見られるよ。さあ、受け取って」
 ハルは一際腕を前へ伸ばし、チケットの束を私に突き出した。そのハルの顔をよく見てみたが、覚えがあるようなないような、やはり彼を思い出すことは出来ない。少し躊躇った後、私はチケットを受け取った。
 チケットに手を触れた瞬間、地鳴りのような音が起こった。あまりの大きな音に驚いて、受け取ったチケットを取り落とした。それが商店街中のシャッターが一斉に開いた音だったとは、ちょっと気がつかなかった。
 一体何が起こったのかと、こわごわ周りを見回してみる。信じられないことに、アーケードの中には明々と電灯が点き、商店は余さずシャッターを開いていた。商店は一瞬にして極彩色に彩られていた。今までの死に絶えた空間は、まるで無かったかのようだ。
「え?」
 その状況を受け入れることが出来ず、間の抜けた声が出た。
「どうしたの?……落としたよ、はい」
 いつの間に店の外へ出てきたのか、ハルが私の落としたチケットを拾い上げ、手渡してきた。
「さあ、行こうか。僕が案内するよ」
 何がどうなっているのかと疑問を投げようとした私を遮り、ハルはつかつかと先に立って歩き出した。私も仕方なくそれに続く。
 店は開いたが、アーケードの通路の上には相変わらず人の気配が無い。開いた店の中を覗いた私は驚いて、思わず足が止まった。いや、恐怖で凍りつき、その場から動けなくなったのだ。
 商店の中に居たのは、まさしく異形、妖怪、物の怪、怪物。他にどう呼ぶのかは判らないが、間違いなく人ではない。
 そこはどうやら肉屋のようだったが、肉の並べられたショーケースの向こう側に立っているのは、何処からどう見ても牛であった。それでいて大きさは人間くらい、更には服まで着ていた。
 私が立ち止まっていることに気付き、引き返してきたらしいハルが声を掛けてきた。
「どうしたの、ミツ?ここに寄りたいの?」
 呈してきた質問は的外れもいいところだった。
 それとも肉屋の主人が牛なのは当然のことだっただろうかと考えた。いやいややはりおかしい。
 そう思って他の店に視線を投げると、どうしたことか何処の店でも店先にいるのは異形だった。隣の店主と会話を交わしているらしいのもいる。
「やあ、みっちゃん。いらっしゃい。久しぶりだね」
 肉屋の牛が口を利いた。しかも「みっちゃん」とは私のことだろうか。怖い……そう思った。
「どうしたの?怯えているの?彼らとは姿が違うだけ。それだけだよ?」
 私のようすを感じ取ったのか、ハルはそう言った。
 何故かは判らない。ただ、ハルがそう言っただけで不思議と安心出来た。それに動揺して気付かなかったが、肉屋の店主は私を知っているようだった。
「あ、あのう……」
 思い切って口を開いてみたものの、私自身には覚えが無く、何を言ったものか全く思いつかなかった。
 不意に肩をつつかれた。ハルだ。にこにこと私が手にしたままのチケット綴りを指差している。
「え?これ?」
 訳が判らずにいる私の手から、ハルはさっとチケットを奪うと、中から一枚を千切って店主へと差し出した。
「毎度」
 チケットを受け取った店主は、にっこりと牛の顔を歪めて笑うと、揚げたてのコロッケを二つ、差し出してきた。一つはハルに。そしてもう一つを私に……。
 あつあつのコロッケを受け取り、どうしたものかとハルの方を見ると、笑顔で大きく頷いた。それに促されるように一口、コロッケを齧る。
 揚げたてのコロッケはホクホクで、とても美味しかった。牛のひき肉とじゃがいものみの、とても素朴なコロッケ。何故かとても懐かしい気持ちになった。


 それから私は、ハルに案内されるがままに商店街を見て回った。やはり何処の店でもいるのは異形たちばかりだったが、私も次第に慣れていった。ハルがいたからというのもあったが、異形たちは皆親切にしてくれた。何故かは判らないが、ここの人たちはこういうものなのだと普通に思えるようになっていった。
 次々と店を見て回る。その度に私はチケットを渡し、店主はそれに応じた物をくれたり、何かを見せてくれたりした。
 異形が商う店は、先程の肉屋のように普通のものもあったが、ちょっと風変わりなものもあった。


 「ミー」と看板の掲げられた店では、二本足で歩く三毛猫が店主をしていた。尻尾の先が二つに裂けている。猫又というものかもしれない。その店主の名前が店の屋号になっているらしかった。
 そこでチケットを渡すと、小さな舞台で子猫が踊るのを見せてくれた。どれも店主そっくりな三毛猫たちだった。拙いながらも一所懸命に跳ね回って踊っている姿は、とても愛らしい。
 舞台が終わってふと気がつくと、今度は大人だがこれも店主によく似た三毛猫が膝の上で丸まっていた。ぐるぐると喉を鳴らしている。
 それを見た瞬間、何故かわからないが急に胸がいっぱいになって涙が零れた。何となく嬉しいような、切ないような不思議な気持ちだった。
 すっかり泣き止んだ頃には三毛猫は、出てきたときと同じようにいつの間にか消えていた。店主に見送られて店を出る。


 しばらくして気を取り直した私は、再び商店巡りに没頭した。
 金物屋の顔が湯を沸かすやかんのようになっている女主人にストーブで焼いた焼き芋を振舞われた。それから他の店でも焼き鳥、スイカ、ポン菓子、すいとんなどを食べ、心の中が懐かしい匂いでいっぱいになった。チケットでもらえた物は食べ物が多かったが、不思議とお腹はいっぱいにならなかった。その時々では満たされるのだが、次の店に着く頃には必ず余裕が出来ていた。
 そうやって店を回って、ふと気付くと手元のチケットの綴りはずいぶんと薄くなっていた。もう残すところは数枚しかない。
 これだけ店を回ってきたにも拘らず、手元に残るものは何も無かった。薄々ではあるが、それには何か理由があるのだろうと感じていた。しかし、それを口に出して問うことは何故だか出来なかった。


 残りの店も回り、チケットはとうとう最後の一枚となった。商店街は、ほとんど終わりに近づいている。もう店は無く、入ってきた方向とは逆側の端に辿り着いていた。
 こちら側の端は、向こう側がよく見えなくなっている。そちらの空間は、直視出来ないほど眩い。
 ふとハルが、こちらへと手のひらを差し出した。
「最後の一枚、僕に頂戴」
 私は黙って、最後の一枚を綴りごとハルに手渡した。それを受け取ったハルは一つ頷くと反対側の手で私の手を取った。
「さあ、行こうか」
 ハルは微笑むと、私の手を引いたまま光の中へと身を差し入れた。
 ハルが光に包まれる。あまりに眩しくてよくは見えないが、ハルの身体が急激に成長していくのが判った。
 手を引かれ、いつの間にか自分も光の中にいた。包み込むような、温かな光だった。
 光の中でハルがこちらを見ている。ハルの姿は少年から青年へ、青年から壮年へ、そして更には老年へと移っていった。
 やがて自身にも、ハルと同様の変化が起こっていることに気がついた。それと同時に、頭の中のもやが晴れていく。
 すっかり少年らしさの無くなったハルの顔を見る。その顔には、覚えがあった。
「……春次郎さん」


「ええ……。そう……。ついさっき……」
 大きな病院の廊下で女性が一人、せわしなくあちこちへと電話を掛けていた。いくらか泣いたらしく、目元を赤く腫らしている。
 そこへ一人の男性が小走りに近寄ってきた。慌ててきたようで少し、息を弾ませている。
「お義母さん、亡くなったって……」
 そう言って婦人に声を掛けた。女性は静かに頷き、男性を伴って近くの病室へと入っていった。
 病室のベッドの上には、既に冷たくなり顔に白い布を掛けられた老婦人の遺体があった。女性がその布を外すと、とても穏やかな微笑を浮かべ、まるで眠っているかのような表情の老婦人の顔が現れた。
 女性はその顔を見て、再び泣きそうな顔をしたが、努めて微笑みを作った。
「本当にね、眠るように逝ったのよ。ずっとにこにこしてた。きっと父さんが迎えに来たのね。母さんと父さん、本当に仲良しだったから……」
「お義父さんが亡くなってから七年だったっけ……。お義母さんも寂しかったのかもしれないな」
「ええ。でも……こんな言い方は何なんだけど、母さんが幸せそうで良かったわ」
 男性はその言葉に頷くと、再び女性と共に病室を出ていった。
 病室の窓からは穏やかな日差しが差し込み、老婦人を見送るかのような優しい風が吹き込んでいた……。





モドル